当たり前のことを書きます。まあ、このブログ自体そのつもりなんですが。
議論に「綺麗事」を持ち込むのはやめといたほうがいいって話。
議論全体で書こうかなとも思ったけど、まあここだけ書きたくなったので。「やりたい」と思ったことを実行に移すのはいいことです。
綺麗事とは
まず、この話からですね。「綺麗事」って言われても確実な定義が出来るわけではないですが、「大多数の人が無批判に受け入れそうな考えやそこからくる言葉など」を指しましょうか。
例を挙げれば簡単ですね。「みんな仲良しがいい」「戦争はいけない」「暴力は悪いこと」みたいなやつです。上記の定義に当てはまりそうなものですね。
このような言葉を「綺麗事」としてこの記事およびこのブログでは使っていきます。
なぜ綺麗事を議論に持ち込まないほうがいいのか
次にこれですね。まあ議論というか主張に組み込まないほうがいいと言った方が正しいかもしれませんね。例外はありますし、それについてもあとで触れます。
理由としてはいくつかあるので、箇条書きでそれぞれ書いていこうかと思います。
主張として浅くなる
おおよその場合、「綺麗事」を主張に組み込むと主張がガンと浅くなります。というのも、それを無批判に受け入れられると意識下・無意識下を問わずに考えて主張に組み込んでいるケースがほとんどだからです。
「戦争はいけない」と主張している人の内、戦争という非常に複雑で難しいものに本気で向き合った人間はどれだけいるのでしょうか。まあ10%もいないです、確実に。大体の人間は「戦争はいけないことだよね」ということを無批判に受け入れてそれを主張に組み込んでいますから。そこに熟考は存在しえません。
無論、その場合は知識もないので反論に対して非常に脆弱な主張となってしまいます。そして、主張が無批判に受け入れられるものなので「反論をする人=異常者」という図式が完成します。ちなみにこうなると議論の余地がありません。
そもそも相手は「綺麗事」に対する反論を持っている
次に当たり前のことなんですが綺麗事は無批判に受け入れられるので、相手はそのことに対する反論を持っているケースがほとんどです。
少なくとも、綺麗事と逆行するような主張はある程度(少なくとも綺麗事を主張する人間よりは)熟考されたものであることがほとんどで綺麗事を言われることを考慮してそれでも主張している場合が多いです。
上記で言えば「戦争をしないといけない」という主張を現代で行う人は異常とも取れますが、彼ないし彼女の中ではある程度の理論のもとにその主張が形成されていると考えられます。
となるとその主張を覆すには綺麗事ではなく、論理とデータが必要となってきます。綺麗事では主張を覆すことはまず無理です。返り討ちに遭うことがほとんどでしょう。
単純に言えば、綺麗事を主張に組み込んだ場合は大抵が熟考の元に行われることはなく、ただ「聞こえがいいから」ということで組み込むことがほとんどになってしまうので、やめたほうがいいということ。
例外について
逆に言えば、熟考の末にそれでもその結論(綺麗事)に至る場合は主張に組み込んでも問題はない。しかし、この熟考の末というのが関門で「主張に対する反論を徹底的にぶつけて自問自答する」という過程が必要です。
そもそも無批判に受け入れられていることを否定する材料を集めるという面倒な手順を何度も行わないといけないので、難しいです。一般ピーポーが手を出すものじゃない。
以上。
余談
「ベーシックインカム」についての本を読んで、綺麗事が書かれまくってて反吐が出そうになったのでここに書き下した。
他にも「みんなが仲良く」するなんて無理だと思ってるし、「戦争がダメ」って無批判に思えないし、「暴力がいけないこと」というのは理解はするけど懐疑的ではあるから。まあ純粋に綺麗事が嫌いなんです。それだけ。
また「議論について」とかいうの書くと思うのでそれまで…。