前回、このようなことを書きました。
今回は「精神的な魅力」について書いていこうかなと思います。
精神的な魅力について
精神的魅力については色々あるとは思うのですが、「寛容性」と「愛情」が魅力に当たるのではないのだろうかと思います。
なので今回はこの二つについて語ります。他にも「こういうのはどうだろうか」というのがあればコメント欄にでも書いてもらえると助かります。
寛容性について
ここでは「寛容性」と書いていますが、「自分と相容れないものを受け入れること」「自分に不利益を被らない限り気にしないこと」というように考えてください。というわけでこの二点について語ります。
相容れないものを受け入れる精神
「自分の知らない領域」や「自分の興味のない領域」「自分とは反対の意見」に対して拒否反応を起こさないことを指します。
自分の知らない領域について「知らないから」と、興味のないものを「興味がないから」と切り捨てる人や、自分と反対の意見に対してどうにか相手を打ち負かそう、無理矢理にでも説得してこちら側に引き入れようとする人は魅力的に見えるでしょうか。
見えないですね。
逆に言えば知らない領域に対して「知ろう」とする意欲が見えたり、興味がないものの魅力を探したり、反対の意見についてある程度認める(自分の意見を曲げることとは別の話)人の方が遥かに魅力的に見えます。
これは「知識的な魅力」に直結する話で、知らない領域を「知ろう」とすることや興味がない(なかった)ものに対して興味を持とうとすること、自分とは違う様々な意見を知ろうとすることは知識の蓄積につながり、それが「知識的な魅力」に繋がります。
寛容性がない人間ほど精神的に閉じており、他者との交流が難しくなります。
興味が限定されていて、自分の知らないことについて無関心であり、自分と同意見の人間しか認めない。極論を言うとこうですが、こういう人間ほど僕たちは関わりを持ちたくないと思うでしょう。「持ちたくない」と言うよりは「持てない」と言ったほうが正しいのですが。
こっから説教臭い話なんですが、世間で勉強が出来る人はなんか「勉強しかできない」とか「性格が悪い」とかいう風潮がある気がする*1んですが、これは概ねおかしな話なんですよね。
というのも、勉強って複数科目あるわけじゃないですか。それに対してある程度の点数が取れるってのは、その分興味の幅が広いor興味を持ちやすい人間であるわけで、潜在的に精神的な魅力をもっている可能性が高いんですよね。
勉強が嫌いな人多いし、なんか「勉強はつまらないもの」みたいな風潮*2があるんですが、一見つまらないものの中にある魅力を探し当てるのが上手いと勉強が出来るようになるんですよ。好きなことはみなさんしっかりとやられるので。
頭の回転がどうとかいうよりも、こういうことの影響の方が明らかに強いと思いますよ。
で、彼らは興味の幅が広いので色んなことが出来たりするんですよね。こう「天が二物、三物与えた」みたいな人らはそんな感じだと思います。
話が逸れました。まあここについては「知識的な魅力を身に着けるためには」みたいな話で触れると思います。ほとんど書いちゃったけど。
ネットの肥溜めみたいなところではこの「寛容性」を身に着けていない人が結構多いですね。「ネトウヨ」とかその典型もいいところですけど。「レスバトル」とかいう不寛容性の殴り合いもそれですね。やるのはいいんですが、自身の魅力を下げていることに気付いたほうがいいです。
不利益を被らない限り気にしない精神
言ってしまえば「悪口」とかですね。ああいうのをいちいち気にする人は心無い人たちから「心の狭い人」というレッテルを貼られます。
このレッテルが結構厄介で、心ある人にも広げられます。
あくまで「魅力」というのは他者の目を通したものなので、悪意あるレッテルを貼られたら魅力は落ちます。
そうでなくても、怒りっぽい人や細かいことを気にする人は精神的な余裕が見られず、魅力的とは到底言いがたい精神といえます。まあ僕のことなんですが。
ただし、この見出しには「不利益を被らない限り」と書いています。
というのも、何でもかんでも許すというのは「臆病」として見られることがあります。自分に不利益を被るのにも関わらずその行為を許すというのは、異を唱える力もない人間として見られます。
ですので、「不利益を被る」場合にはしっかりと異を唱えましょう。さもなくば「臆病な人間」として捉えられ、それは魅力を後退させられることになります。
では「不利益を被る」ということの基準ですが、「自分の財産を失うこと」と考えてもらえればいいかと思います。ここでいう財産は広義の財産で「時間」や「人との縁」、「健康」なども含みます。
例えば、健康に害がないレベルの小言などは別に許容したほうが良いのですが、精神的にダメージを負うようなレベル(暴言の度合いや頻度)であれば声を挙げるべきです。
このあたりの基準については非常にどう言えばいいのかわかりませんので、個々に判断してもらえればいいかと思います。僕にもよくわからないです。
愛情について
ここでは簡単に言うために敢えて「愛情」と称していますが、「相手のために行う行為」として考えてください。
これが何故「精神的な魅力」に繋がるかについては語るまでもないでしょう。
「相手のために行う行為」というのはまず、相手を慮ることができない人間には出来ませんし、相手を知った上で行う行為です。
またどんな行動だとしてもその行為自体には自分の時間を使っていますので、コストを払った上で行っている行為になります。
たとえ方向性が間違っていたとしても、その意図をわかっていればその行為は非常に魅力的に見えるものではないでしょうか。
見えない場合はその人の寛容性が足りないです。まあ方向性を間違っている場合は行為者の(相手に対する)知識が足りてないことなので、これの反証にはなりえません。
愛ですよ、愛。
あまり語ることがありませんね。まあ言わずともわかるものだと思うので。
余談
先月まで「ゆるキャン△」というアニメが放映していました。
これに出てくる各務原なでしこっていうめちゃクソ可愛い子がいるんですよ。
この子なんですけど。この子は上記のことをしっかりと出来ていますね。お手本にしたいくらいです。本当に。
アウトドアの素養があったのかもしれませんが、おそらく興味のなかったと思われるキャンプについてかなり興味を示しています。興味の幅が広いです。(興味を示すことが出来る)
志摩リンという子を野外活動サークルに誘って断られても、相手のことを受け入れ、認めることができます。(他の意見に対して寛容性を示す)
愛情に関しては語りたいエピソードが6巻にあり、ネタバレになると嫌なので語りません。(「相手のために行う行為」ができる)
ここで語っている精神的な魅力をしっかりと実践できているキャラクターなので、フィクションのキャラクターではありますが見習うところは多いと思います。僕は見習いたい。
というわけで、みんなも買おう!
ー「ゆるキャン△の宣伝をしたかっただけでは?」
-それだけは違う。